2020年01月27日
平等不平等

子どもの劇の発表会で、誰でも何人でも好きな役になれる、つまり配役を平等にしたとします。
極端な話、30人全員主役もあり得るわけです。
これは、かけっこで全員手をつないで横一列でスタートするのと一緒です。
ペースを一番遅い子どもに合わせて走り、そして全員一斉にゴールして、全員一等賞になります。
例を挙げればきりがありません。
これは、社会主義的 または 共産主義的 な思想です。
劇の例でこの仕組みがいずれ失敗する理由を説明します。
誰でも好きな役になれるということは、役に人数制限がありません。
つまり、演技力など基準のある選考が行われません。
本来、人数に限りのある役を獲得するために、人は努力します。
なので、努力せずに好きな役を選ぶことができます。
演技力などはどうでもよくなります。
ついでに言うと、配役を平等にすることは、個々の個性が失われることにもなります。
努力せずに役についた演者は、ほかの演者と横並びになるので、親以外は誰が誰でも関係なくなります。
もっとも、30人が30人全員主役なら、全員大体同じような動作をしているので、誰が誰でもどうでもよくなります。
本来選考を勝ち抜いてそれぞれの役を演じれば、役に応じて注目され、誰が誰なのか知ることができます。
配役が正常に行われれば、それぞれの配役に名前があり、役ごとの演技によりそれぞれ個性を見ることができます。
全員主役なら、全員分の名前がリストされているだけになり、結局誰が誰なのかわからなくなり、結果個性は埋没します。
親にとっても悲しい結末になります。
努力してもしなくても同じ結果になるならば、子どもは結果のために努力しなくなります。
かけっこの例でも、全員平等に1位になれるならば、子どもは1位になるために努力しなくなります。
お子さんの学校の成績が不満でも、日ごろから努力するチャンスを奪ってしまっていれば、致し方ありません。
劇で主役になれなくても、それがお子さんの努力した結果ならいいのです。
かけっこで一等賞になれなくても、それがお子さんが努力して獲得した順位なら、それでいいのです。
大切なのは、目標に向かって努力することはいいことだ、競争することは健全で、競った結果こそが 「平等」 なのです。